プロフィール

髙橋 由佳
誰かの期待ではなく、自分らしく生きたい方専属ライフコーチ

1993年、新潟県生まれ。歯科医師の父、専業主婦の母の4人家族、長女。母から「由佳は将来歯医者だもんね?」と親族の前で繰り返され育つ。中学生のとき「看護師になりたい」と初めて口にするが、「医師の言いなりの職業はなっても無駄」と一蹴される。「歯科医師にならなければ、自分には価値がない」と思い込み、他人の期待を優先する人生が始まった。

母にすすめられるまま進学校へ進み、国立大学歯学部へ入学。歯科医師免許を取得。技術と経営を学ぶため転職を重ねるが、残業月60時間以上続けてもノルマは達成できず挫折。仕事以外はベッドで寝て過ごし、「仕事するために生きてるの?」と涙する日々。

そんな中、10年間反対され続けた交際に「この人しかいない」と自分の気持ちを貫き、入籍。仕事でも現状を変えたいと模索する中、ライフコーチに出会い、「やりたいことを先にやってはだめなんですか?」たったひとつの問いに涙があふれた。他人の期待を、自分のルールとして課し続けてきたと気づいた瞬間だった。

「自分を大切な人のひとりとして扱う」感覚を取り戻し、売上400万円増・年収100万円アップ、フルタイムから非常勤への働き方も実現。現在、歯科医師として働きながらライフコーチとして活動中。クライアントは、自分の本音を軸に生きることで、職場での自己表現、主体的なキャリア選択、人間関係の改善などを実現している。

趣味・好きなこと
 

主な経歴

2018年 新潟大学歯学部卒業
2019年 新潟大学医歯学総合病院 歯科総合診療部 研修修了
2020年 東京都内開業医 勤務
2022年 新潟県内開業医 勤務

資格など

2019年 歯科医師免許取得
2023年 WDSC(歯科矯正)ベーシックコース修了
2024年 WDSC(歯科矯正)アドバンスコース修了
2024年 フィールドシフトコーチング講座0期修了

由佳の自分史

幼少期:他人の期待を優先する人生の始まり

1993年新潟県長岡市育ち。(日本三大花火の1つ、県内で2番目に人口の多い市)
歯科医師の父、専業主婦の母、4歳下の弟の4人家族。

実家は1階が歯科医院、2階が自宅に住んでいた。
玄関に入ると歯医者特有の薬剤のにおい、父は白衣姿のまま自宅に来ることもしばしば。
歯科医師という職業が本当に身近なものだった。

自分を否定するたびに自信を無くす

私は4月3日生まれ。
遅生まれだから、同級生と比べても物覚えが良く、勉強もよく出来たし、足も速かった。

鼓笛隊の指揮者にも選ばれて、周囲からの注目を浴びる機会が多かった。
友人の母から「由佳ちゃんはいつもすごいね!」とよく声をかけてもらったことを覚えている。

しかし、私が褒められる度に母は間髪入れず
「いやいや、全くそんなことはないです」
と全力で否定していた。

そんな母を見て、
”私は褒めるに値しない存在なんだ”
とよく落ち込んでいた。

また、「写真を撮る時は、みんなの迷惑にならないように端にいなさい」と教えられていたこともあって、
”私は目立たないように、人の迷惑にならないように生きないと”
と思うようになっていた。

そんな思考を続けていく中で他人の目が気になり、言葉や行動を控えるようになった。
”価値もない人間”と思い込んだ私は、直接人に褒めてもらう機会があろうものなら
私も「いえいえ。そんなことないです。」と全力で否定するようになった。

そして、自分で自分を否定し、さらに自分に自信をなくしていった。

弟への悪戯と思い切り怒られた経験

母方の家系では、私は初孫だった。
祖母や叔母は、生後間もない私をわが子のように世話してくれた。
特に叔母は産婆さんに母親だと間違えられたそうだ。

そのくらい熱心に世話をしてくれたり、手作りの洋服をくれるなど、とても可愛がってくれた。
愛情を一心に受けて育ったな〜と振り返って思う。

4歳の時に弟が生まれた。
自分よりも弟に注目が行くのが嫌だった私は弟に嫉妬してちょっかいを出ていた。
生まれたばかりの弟の顔にビニール袋を乗せて遊んでいた。

悪気はなく子供の私にとってただの遊びだったのだが、
母に見つかり「由佳!殺すつもり?!まさか由佳がそんなことするなんて信じられない!」
と怒られたられたのを覚えている。


母の怒り具合と落胆した表情を見てショックだった。

”価値がない私がこれ以上母を失望させてしまうと嫌われてしまう。怒られない良い子にならなきゃ。”
と考えるようになっていた私は、母の言うことを聞く良い子でいるよう無意識で動くようになっていった。

親の期待を優先することが正解の世界

母の実家が十日町市という着物の町だったため、
お稚児さんや七五三など行事ごとで着物を着る機会が多くあった。

着る着物や髪型も決められたものに着飾っていたわけだが、決まって髪型は日本髪。
私は日本髪は正直好きではなくて、前髪は下ろしている方が好きだった。

しかし、母や祖母が「やっぱり、由佳ちゃんはおでこが出てる方が似合ってるね!かわいいよ!」と褒めてくれた。

”きっと私が前髪下ろしたい!って言っても認められないよな”
と自分の意見に自信が持てなかった。

”言ってもお母さん不機嫌になるよな。良い子にお母さんに従うのが正解だよな。”
と思い、自分の意見が言えなかった。

結果、日本髪の私をみて喜ぶ2人の様子を見て
”周囲が求めることに従っていれば、周りが不機嫌になることもないし、
私も否定されないからやっぱり周りの意見に従うことが正解だな”

と本当の自分の好きなものに自信が持てなくなっていった。

小学時代:歯科医師が将来の目標になる

歯科医師になることが私にとっての正解

毎年、新年の挨拶は祖父母の家を訪れていた。
証人を増やすかのごとく、母はわざわざ親戚の皆の前で
「由佳は将来、歯医者になるんだもんね?」とよく質問してきた。
否定できない空気の中で、私は
「うん。もちろん歯医者になるよ。」
と居心地の悪さを感じながら答えた。

幼少期の頃は歯医者は父の仕事であり、私とは関係ないと思っていた。
だけど、小学生になり
”私は歯医者になった方がいいのかな?お母さんは私に歯医者になって欲しいのかな?”
と考えるようになっていった。

また小学校の友人には「由佳ちゃんはお家を継ぐの?」
と必ず質問されたのを覚えている。

”周囲は、私が実家の歯科医院を継ぐことを期待しているんだ…。私は歯科医師になるのが、正解な人間なんだ
そう思うようになった。

小学2年生の国語の授業で、「なってみせる!」という題名で詩を書いたのを覚えている。
内容は、
『歯科医師になった私が泣いている子供に「大丈夫だよ」と言うと子供が泣き止む』
というものだった。
この頃から、歯科医師という職業が将来の目標になっていった。

父は寡黙で何を考えているか分からなかった。
だけど、静かに私を見守るその眼差しは優しさに満ちていて私は父のことが好きだった。
”私が歯医者になったら、お父さんと一緒に働けるかな!きっと、私が歯科医院を継げばお父さんも喜んでくれる
そう思うようになった。

自分を否定しては自信を無くすループ

小学3年生になり、仲の良い友だちが出来た。
その友だちと席が隣になり、授業中に、分からないことを彼女に質問した。
すると彼女は
「私に質問しないでよ!自分の頭で考えられないの?」
と不機嫌な返答をした。

私はせっかく仲良くなった友だちとの関係を悪化させたくないと思った。
だから、それからは、
”嫌われないように、人に迷惑をかけないように”
と疑問があっても、人にストレートに聞くことはせず、人の顔色をうかがうことに必死になった。

少しでも相手が怪訝な表情をすると、
”あ、また間違えたかも”
と自分に自信を無くすループを繰り返していた。

中学時代:加速していく「母の正解」に生きる日々

歯科医師にならなければ、私には価値が無い

中学校は1学年6クラス。市内で2番目に規模の大きい学校だった。
親友の影響で吹奏楽部に入部した。
フォルムのかっこよさ、音色の心地よさ、何よりも吹き心地が一番しっくり馴染んだサックスパートを希望。
希望者6名で2席を争う過酷なオーディションを勝ち取り、サックスを担当出来ることになった。
”いい!この楽器絶対やりたい!”と思ったからこそ、魅力を感じたサックスだったからこそ、担当になれてとても嬉しかった。

中学2年生の時、憧れの先輩の進路を聞く機会を得た。
先輩は成績優秀、要領も良く、サックスも上手だった。
”私も先輩みたいになりたい!”と思うほど憧れだった。
先輩は、看護師になりたいから県内で一、二を争う偏差値の高い高校に進学する予定とのこと。

医療系と聞いていたため「医者かな?」と予想していた私には、医師ではなく看護師を目指す先輩の選択がとても意外だった。
「病気やケガで苦しむ人に寄り添い、患者さんの一番近くでサポートしたい」
と話してくれる先輩の姿勢に惹かれた。
その出来事をきっかけに私も看護師という仕事に興味を持つようになった。

しかし、母に「看護師に興味あるんだよね」と打ち明けたところ、母は
「医師の言いなりの職業はなっても無駄」
と言い放った。
自分が初めて「なりたい」と言った職業を否定されてしまいかなりショックだった。
本当は母から応援して欲しかったし、尊重して欲しかった。

”私は何言ってもダメだ。私の意見には価値が無いんだ”
だから”歯科医師になんとしてもならなきゃ”と思ったのだった。
それからは”歯科医師にならなければ私には価値が無い”という考えが、頭を占めるようになっていった。

母の正解に従った高校進路選択

勉強は定期テストでは、200人中、10位以内にライクイン。
5教科で450点以上、つまり1教科平均90点以上を3年間維持した。
部活では中学3年生になり、パートリーダーに就任。
コンクール曲でソロパートを任された。アンサンブルコンテストでは県代表として地区大会への進出権も獲得した。
生徒会では、念願の事務局長に就任。
絵画や作文はコンクールに出せば入賞。

文武両道の充実した3年間を送った。
自分の人生は順風満帆だと感じていた3年間だったなぁ。
やりたいことはやり尽くし、やるからには全力投球。
望んだことをほぼ手に入れることができた時代でもある。
目標達成を目指して努力したり、一生懸命頑張る自分が好きだった。

進学に関して、学年の成績上位20名は市内の進学校を目指すような形だった。
その高校は文武両道がモットーの学校。
私も中学生活と同様、高校でも”文武両道!勉強も部活も自分がやりたいと思ったことは何でも全力でやり尽くしたい!”それが私の中での正解だった。
だから私もその進学校への入学を目指していた。

進路選択の時期になり、母から
「うちには借金があるからお金がない。国立歯学部しかダメ。私立の歯学部は通わせられない。あと、うちは女の子は大学浪人はさせられない。」
と言われた。
加えて「歯科医師になりたいなら、由佳にはこの高校が合う」と市外の進学校を勧めてきた。

その高校は携帯持ち込み禁止。部活は趣味程度で、まるで予備校のような課題量、毎朝ある小テスト、自宅学習は平日4時間、休日6時間(受験期は10時間)を推奨していた。

”そんな高校ただ勉強しに行くだけじゃん!それじゃただの予備校じゃん!高校って部活とか、青春を謳歌する場所じゃないの!?そんな勉強漬けじゃ私の理想の高校生活と程遠いんだけど!!”
と憤怒を感じた。

けれど一方で、
”歯科医師以外の私に価値は無い”
”歯学部にすら行けなければ、歯科医師にはなれない。”

という思いが湧いてきた。
そう思い始めると、高校でも文武両道を貫いた上で、現役で国立大学歯学部に合格する自信がなくなっていった。

”それならいっそ歯科医師になるために母の選択に従う方が無難かも。”
と思えてきて、母への怒りを押し殺した。

結局、”文武両道の高校に行きたい!”とは言い出せなかった。
大好きで懸命に取り組んでた吹奏楽を手放して母の勧める高校に進学することにした。
どこか心残りもあったのだろう、
受験期間は”2頭追う物は、1頭も得ず。”と自分に言い聞かせていた記憶がある。

高校時代歯学部合格のために費やした3年間

自信とやる気を失う

結局、高校は母がすすめる学校に推薦で入学した。
高校に入学してしまえば、母の意見に従った後悔は消えて、学校生活は楽しくなると思っていた。
高校入学直後のテストでは115人中、112位。
私より成績が下の人は3人しか居なかった。
中学と同じく上位10位以内には入れると思っていたのに。

同じ中学校から一緒に進学した2人に対して、
”学力は2人には勝っている”
と思っていた。
テスト結果を見て実は”負けている”と知って自分に絶望した。
勉強も、だめだなんて自分には価値がないと一気に自信をなくした。

中学時代は自分の「好きなこと」として勉強を挙げるくらい勉強が好きだった。
新しいことを覚えたり、知っていく喜びがあったから、学ぶことが楽しかった。
さらには、自然と点数も取れて嬉しかったしやる気もどんどん上がっていった。
だけど、高校に入ってからは勉強が、
「国立歯学部に合格するため」のただの「やらなければいけないこと」になっていた。

「勉強ができること・歯学部に合格できること」=「自分の価値」
となって、勉強が全てを左右する深刻なものになっていた。
”このままじゃダメだ。もっと勉強しなきゃ合格できない。もっと高い順位に行かなきゃ”
と毎日焦りと不安でいっぱいだった。

テストで巻き返して自分の価値を取り戻すんだ。
高校が推奨していた平日4時間、休日6時間は死守して勉強した。
だけど、順位が真ん中以上には行かない。結果は中の下。
周りと比較する毎日になって苦しくなった。

”とにかく勉強時間を積むぞ。集中出来なくなったら、他の教科に変えて一日中ずっと机に向かう。”
自習室で勉強しているとき、トイレに行きたくなっても、
”あいつは集中力の無いヤツだ”
”お前みたいな低順位のヤツが休んでんじゃねぇよ”

って思われたらどうしよう、と怖くてトイレにも行けなかった。
結果、膀胱が限界を迎えてスカートと靴下が濡れるまで漏らしてしまったこともある。

勉強のことに頭がいっぱいでいつもエネルギーが漏電してるみたいな感覚だった。
集中して頑張ろうと思っても、もちろん集中できない。
担任との交換ノートで「やる気が出ない。」と吐露したところ、担任からは
「やる気が出ないなんて言っている場合じゃない。やる気が出なくてもとにかく淡々とやり続けるだけ。」
と言われたことを覚えている。

”もう逃げ道なんて無い。勉強が自分の価値だからやり続けなければ。”

と感情を捨てて、ロボットのように決められた時間と量をただこなし続けた。

他責思考で自信を失う進路選択

中3の時、母には「現役国立歯学部合格」と言われていた。
高3になって両親から、「金銭的に行かせられるのは、国立歯学部。私立なら、特待生で学費がある程度免除になるところしか無理」と言われた。
滑り止めとして私立も可能なことを伝えたかったのだろう。
歯学部は6年制で学費が国立は約300万円、私立の特待生でも(当時)約1500万円かかる。偏差値は国立が60前後、私立はほとんどが50以下だった。
国立は難易度が高いが、学費も抑えられる。私立は学費はかかるが、模試の判定はBで合格の可能性が高い。
だけど、国立歯学部への入学を諦められなかった。
高校3年間国立歯学部合格のために勉強してきた自分を否定するわけにはいかない。
もう後には引けない、国立歯学部以外あり得ないという思いだった。

模試では国立歯学部はどこもE判定だった。一般入試での合格はきっと厳しい。
推薦入試で合格できなければ道はないと思った。
担任との面談で「国立大学の歯学部に推薦を出すことは出来る、今の内申点であれば合格の可能性がある」と言われた。
安堵とともに、このチャンスを何としても物にしなければ!と意気込んだ。

三者面談で県内の国立歯学部への推薦入試を受験することが決まった。
出願するのにあたって、「自分の優れているところや歯学部に向いていると思われる点」について、自己推薦書を提出する必要がある。
“とっとと出願して推薦入試のための勉強をしなければ!”と焦りでいっぱいだった。
自己推薦書の添削が始まって、担当の先生の言われるがまま、修正されるがまま直し続けた。
しかし、言われる通りに修正してもなかなかOKがもらえない。
その結果、気づいたら原稿用紙20枚も書き直していた。
推薦入試の試験内容は面接、小論文、当時センター試験だった。自己推薦書を終わらせて勉強に集中したい。

終わらない焦りと苛立ちから、
”お前のせいで時間が無くなって不合格になったらどうしてくれるんだよ!
現役で国立歯学部に合格しなきゃいけないんだよ!
不合格になってお前責任取れんのかよ!
推薦は現役生しか受けられないんだよ!
このチャンス逃したらもう後が無いんだよ!”

と、添削してくれる先生への怒りが募った。
本当はこの不安な気持ちを言いたいけれど、”そんなことを言ってしまったら、評価が下がる。最悪、出願取り消しってこともあるかも”と、実際に先生に気持ちを相談することもできなかった。

「受験勉強に集中したいから、自己推薦書の添削を終わりにして欲しい」と伝えることが出来ず、母づてで添削を終わらせるように伝えてもらった。
思い通りにとりあえず添削を終わらせて、無事出願することができた。あとは受験勉強に集中すればいい状況に出来た。
しかし、”思ったことすら自分の口で伝えられない無力な自分”は価値がないとさらに自分を責めるようになった。

大学時代:歯科医師国家試験不合格へ

他人の「正解」に従った結果、肺炎で入院

地元の国立大学の歯学部に、推薦入試で入学することができた。親元を離れ、念願の一人暮らしがスタート。
大学には二つのキャンパスがある。1つは医療系のキャンパス。もう一つはその他の学部が集まる本キャンパスだ。
医療系の学生は、1年生の時に本キャンパス、2年生以降は医療系キャンパスで学ぶ決まりだ。
部活動の観点から考えると、5年間を過ごす医療系キャンパスの部活に入った方が続けやすいし、医療系の学部の先輩と繋がることもできる。だから、医療系キャンパスの部活に入ることは自分の中で「マスト」だった。

ただ、残念なことに医療系キャンパスには吹奏楽部がなかった。高校時代に吹奏楽へ打ち込めなかった未練があり、吹奏楽部への入部をどうしても諦めきれなかった。結果として、医療系のキャンパスの軽音部と、本キャンパスの吹奏楽部の両方に入部することにした。けれど、入部してすぐに2つの部活に入ったことを後悔し始めることになった。
ブランクのあるサックスの練習に加え、医療系キャンパスでの活動、そして週20コマの授業数。勉強と二つの部活の両立に限界を感じ始めた。「続けるなら医療系キャンパスの部活」だということは決めていた。だから、入部3か月で本キャンパスの吹奏楽部の先輩に退部を申し出た。
先輩からは、「自分は3年生だけど、大学の勉強をしながら宅建の講習も受けている。みんな忙しい中、時間を割いて練習しているから、もう少し頑張ってみましょう」と引き止められた。

「忙しいのは自分だけじゃない。先輩も頑張っているのだから、私も頑張らなくちゃ」と思いながらも、
「もう限界なのに。これ以上頑張る余裕なんてないのにどうすればいいっていうの?!」
と矛盾した感情にどうしていいか分からず泣いてしまった。”これ以上、先輩と話してもきっと先輩の気持ちは変わらない。従わないとこの話し合いも終わらない”と思い、「分かりました」と答えて、吹奏楽部を続けることにした。

その数日後、風邪のような症状で熱が出た。「部活を休むのはよくないこと」と考え、いつも通り吹奏楽部の練習に参加した。
合奏中に息苦しさを感じ、演奏が続けられなくなった。意識が朦朧とし、「このままでは迷惑をかける」と感じて早退することにした。しかし、途中から一人で歩けなくなり、友人に助けを求めてどうにか帰宅した。
たまたま私に会いにアパートにに来ていた母の勧めでで内科を受診することになった。点滴を受けたが、症状は改善しなかった。医師の判断で救急搬送され、夜間当直の病院に入院した担当医は専門が呼吸器科ではなかったため、一晩をどうにかやり過ごすような状態だった。
自力でトイレに行く体力もなく、看護師さんを呼ばなければならなかった。翌日、呼吸器科のある病院に転院し、肺炎と診断された。
しかし原因菌が特定できず、効果的な点滴がなかなか見つからなかった。

数日間は呼吸するだけで精一杯で、スマホも触れず、友人や先輩に連絡することもできなかった。結果的に2週間の入院となった。
入院中、吹奏楽部の先輩が見舞いに来てくれたようだが、母の判断で私とは会わずに帰ってもらった。母を通じて退部の手続きをしてもらい、部活を辞めた。
”やっと部活を辞められた”とほっと安堵した。

今なら、当時の私が“自分がどうしたいか”よりも、“どうすれば他人が納得するか”を優先して行動していたことが分かる。
大学生になっても高3の時と同じで、他人の意見に従ったり、母親を頼ってしまってしまった自分が嫌だった。

今思えば他人の「正解」に従いすぎると自分が壊れていくんだなと本当に思う。

「家に上がり込むような男は由佳にはふさわしくない」母との大喧嘩

大学2年生のとき、バンドを組んだことをきっかけに、彼氏ができた。(実はこの人が、のちに私の夫となる人である。)
当時彼に告白されて、私は戸惑った。当時の軽音学部は部長の指示で「部内恋愛禁止」となっていた。そして、その禁止ルールの中、私は部内の同級生とお付き合いをしたことがあったからだ。
”また部内恋愛をすることになる。部長に恋愛ばかりのやつと思われるかもしれない。”と不安になった。その気持ちを彼に伝えたところ、彼は「由佳はどうしたい?」と聞いてくれた。彼のことは正直好きだと思っていた。私の気持ちを尊重しようとしてくれている彼の姿勢に気持ちを動かされ、自分の気持ちに素直に「私はあなたと付き合いたい!」と伝え、付き合うことにした。

付き合って半年が経過した大学3年生の秋
「できるだけ同じ時間を共有したい。大学にも近いし、由佳のアパートで過ごそうか。」
という話になり、私のアパートで半同棲を始めた。
その半年後、母が彼の荷物に気づき、半同棲していることが母にばれた。
母は怒りに満ちた声で
「家に上がり込むような男は、由佳にはふさわしくない!荷物を返して別れなさい!」
と隣の住人に聞こえる声で言い放ち、アパートを出た。
後日、母は彼に荷物を返したかどうかを確かめるため、祖母を“偵察”としてアパートに寄こしてきた。
たまたま荷物を取りに来た彼と祖母が鉢合わせ!
祖母は彼に会うなり
「女の家に転がり込むなんて何のつもりなの!?」「あんたは由佳の何なの!?」と捲し立てた。
それに負けじと彼は「カ”レ”シ”です!!!」とすごい剣幕で言い返していた。
祖母も彼も感情的になりやすいタイプ。正直こうなることは予想がついていたから祖母と彼をまだ会わせたくなかったのに。彼に荷物を突き返し、「あんな人、由佳にはふさわしくない!」と祖母は断言した。
祖母と母にとって彼の第一印象は最悪だ。彼との交際を認めてもらうのは一段と難しくなった。

最後に一部の望みをかけてダメもとで父にメールを送った。
「彼と一度会って話してほしい」と頼んでみたが、返ってきたのは
「無理です。会えません。」
という短く冷たい返事だった。

”家族の誰からも、彼との交際は認めてもらえない。”
”家族から、男を見る目のない娘と思われている。”

彼との交際を否定されるたびに、自分自身を否定されているようで、胸が締めつけられ苦しかった。
”私さえ我慢すれば、親の言う通りにすれば、この問題は静かに収まる”と自分に言い聞かせた。家族を説得するエネルギーは残されておらず、この件は保留のまま過ごした。

大学4年生6月。私は6年制の歯学部だから学生生活の折り返しだった。彼は4年で卒業する学科だから、進路を決める大事な時期になった。彼が体調不良で大学を早退。
”大事な時期なのに私の家族のことで彼にいらぬプレッシャーを与えてるんじゃないか?”
”私せいで彼にストレスをかけて、進路の受験がうまくいかなかったら?”
”私もこの状況から早く解放されたい!”
そんな思いから、彼に「板挟みの状態で辛い。両親たちの感情を鎮めるためにも、一度別れさせて欲しい。」と伝えた。彼は私の気持ちを汲んでくれ、あっさりとお別れすることになった。
別れたあとも、彼は友人として私を支えてくれた。夏休みに入り、彼と直接会うことも、連絡を取ることもなくなった。改めて彼が居ないことの寂しさを感じた。彼の存在は私の支えだったこと、彼は私にとって大切な存在であったことを痛感した。彼と別れたことに後悔と未練しかなかった。”なんで両親や祖母を説得できなかったんだろう”と思い出しては悔やんで一人泣く日々だった。

夏休みが明け、彼の進路が決まった。公務員として働きながら社会人大学院生として進学すると聞いた。彼の進路が決まり、直接会って話す機会を作ることにした。彼は、これからの2人のパートナーシップをどうしていきたいかを私に尋ねてくれた。彼は「俺は由佳と一緒にいたい」とはっきり伝えてくれた。
彼はやみくもに意見を押し付けるのではなく、私が何を考え、どう思っているかを聞いてくれた。その姿勢は彼自身も私も大切にする姿勢で、私への思いやりや愛を感じた。そんな姿勢を感じて、やはり彼と一緒にいたいと思った。彼が教えてくれた自分の気持ちを大切にすることを私も大切にしたいと復縁することを決めた。

両親たちには内密に復縁することにした。(最終的に、10年隠し通した^^)

社会人(パートナーシップ編):
10年越しの覚悟。他人の「正解」を超えて、掴み取った私の幸せ

学生から社会人になり、学生の頃より彼と会える頻度や時間は減った。私は車を持っておらず簡単に会いに行くことができない。また、就職先の異動の関係で彼が離島へ住んでいた時期もあったし、私自身が新潟を出て、東京に住んだ期間があったり、学生時代とは環境が変わった。
そんな遠距離の期間でも月に1回は会えるようにお互い予定を合わせた。片道5時間の距離でも、休みを合わせて時間を作った。年1旅行にも行った。二人で工夫して関係を育んでいけたと思う。
けれど、解決していない問題があった。両親たちの説得である。
本当は、両親に
「あなたたちが否定して、切り捨てた人とこんなにも幸せな時間を過ごしてます!」「私はこの人がいいです!」
と自分が幸せであることを主張したかった。

ただ、両親たちは世間体、地位、家柄、経済力などが判断基準。私が幸せという主観だけではなく、両親の説得には両親が思う幸せの形も必要だと思った。だから二人で目標を決めていた。彼は昇級すること、私は仕送りをもらわず、経済的に自立すること。
両親の認めるであろう基準値に達するにはにはどうしても時間が必要だ。結局お互いが目標を達成するには約10年の年月がかかった。

2人とも目標に到達し、いよいよ報告する時がきた。3人を1度に集めて報告するのは大変だと思った。両親、そして祖母と1対1になれるタイミングをうかがった。
母や祖母とは小さい頃から女同士でコミュニケーションをとることが多かった。だから、まずは祖母から。祖母は一瞬驚いた顔をしたが心配そうに「彼は元気にやってるの?」と声をかけてくれた。「由佳が幸せならそれでいいの」と何か言葉を飲み込んだ顔をした。どうしてそんな顔をしたのか理由が分かったのは数年後だった。2人で祖母に挨拶に行ったときのこと、祖母は見送りの時に「由佳を幸せにするのよ!由佳を泣かせるようなことしたら許さないんだから!」と涙ぐみながら彼とかたく握手してた。祖母は報告を受けた直後「彼で本当に大丈夫なの?」と不安があったのだと思う。でも、その不安を私には直接言えなかった。だから彼に直接由佳の幸せを託したんだとようやく気づけた。

次は母。「なあんだ。心配して損したあ。」と冗談交じりに笑って言った。交際を反対したことに罪悪感を感じていたようだった。「あの時はごめんね」と思い出しながら謝ってくれた。そういえば私が国家試験に不合格になった際、「あの時二人の交際に反対しなければ、彼が由佳を支えてくれて国家試験に落ちることもなかったかもね。」と申し訳なさそうに言っていたもんな。

次は父だ。正直、父親に打ち明けるのが一番不安だった。父は寡黙な人でしっかりと父の考えを聞いたり話したことはなかったからだ。
帰省して家族との夕食後、「ちょっとこの後時間ある?」と二人きりになった。「実は、プロポーズを受けていて、結婚したい相手がいるの。ただ、その人は学生時代、お父さんたちから交際を反対れて1度別れた人なの。もう一度、話し合ってお父さんたちには秘密で付き合ってました。隠していてごめんなさい。きっと、お父さんたちは、”由佳にはこんな人と結婚して欲しい”って理想があるかもしれない。だけど、私はこれからも彼と一緒にいたいと思います!」と父に打ち明けた。父は一言「良かったね。」とやさしく微笑みかけて、結婚を祝福してくれた。私は、安堵で緊張がゆるみ、号泣してしまった。

3人に結婚を認めてもらうことができて、ほんとうに嬉しかった。彼と結婚もでき、今では両家で温泉旅行したり、差し入れしあう仲の良い関係を築けた。自分の気持ちを大切に持ち続け、信念を曲げずに10年貫いて良かった。両親たちも私の覚悟と決意を受けとめてくれたことも嬉しかった。きっと昔も今も変わらず、両親も祖母も私の幸せを想い願ってくれてたんだと思う。それにようやく気づくことができた。

親友との絶交、精神的に不安定な状態で国家試験を受験、結果不合格に

6年生になりいよいよ、国家試験の年となった。私の通っていた大学は他の大学よりも病院実習の終わる時期が遅かった。だから試験勉強に使える期間はたった約4か月だった。
国家試験は6年間の広い範囲が出題される。国家試験の勉強は苦痛だった。なぜなら、自主的に受験勉強をしたことがなかったからだ。高校・大学受験と推薦入試を受けてきたし、これまで受験に対しては学校や予備校で与えられた課題をこなし受動的な勉強しかしてこなかった。
国家試験は基本的にこれまで学んできたことをもとに自分で対策するというのがスタンダードだった。大学で試験対策授業はなく、自分でやるしかない。どう対策すればいいか分からない・・・

勉強期間4ヶ月では間に合わないと思ったから、病院実習中も国試対策に取り組んではいた。ただ、病院実習では学生でありながら実際に歯を削るという治療もする。患者さんに対する責任感と重圧を感じた。不手際がないように、治療のための準備や勉強も怠ることはできない。9:00~16:00は病院実習、16:00~18:00実習準備、18:00~22:00図書館が終わるまで国試勉強、22:00以降友達とファミレスで国試勉強の続きをすることもあった。
そんな中病院実習が終わる直前、短期留学の話が舞い込んできた。留学先はアメリカペンシルバニア大学、私にとって憧れの場所。興味のある歯科分野の権威のある教授が在籍する大学なのだ。歯科医師になってから留学へ行くのは大変と聞いたことがあった。どうしても今行きたい。

募集要項をみると時期は国試の数日後。定員は3名。5年生の時もこの留学の募集はあった。ただ、私のほかに同級生3人が参加を希望した。”3人の方が優秀だから、きっと私は落選する。”恥をかくのが嫌で応募しなかったのだ。6年生は最高学年だから優先される。「行きたい!」と手を挙げれば行ける。私にとっては最後のチャンスだと思った。

両親と親友に短期留学をしたいと話したところ大反対された。「国試の勉強をしながら短期留学の準備しないといけない。由佳には国試勉強との両立は難しい。本番まであと少ししかないから、試験勉強に集中すべき。」と言われた。それは正しい意見だ。
自分でも、病院実習と国試勉強の両立もできてないのに、他のことに時間を割くべきではない、国試勉強に集中すべき。それでも”短期留学に行きたい!”という気持ちを我慢できなかった。「留学準備は病院実習ほど時間を割くことはない!」と説明し、アメリカ短期留学への熱意を語り、両親はなんとか説得することができた。

ただ親友は最後まで反対と姿勢を変えなかった。親友は大学に入学して初めてできた友達だ。バンドも一緒、バイト先も一緒。お互い一人暮らしで、一緒にご飯を作ってお泊りをしたり、勉強したり、お互いの実家にだって泊まったこともある。1番一緒にいる時間が長かったからこそ、反対してくれたのだと思う。卒業旅行も親友たちと行く予定で計画していた。短期留学と日程が重なっていたから、私は卒業旅行へ行くのをキャンセルした。
結局、親友との口論になり「ゆかは短期留学に行っても、行かなくても国試に不合格かもだしね」と私に言い放った。私はと応援してもらえると期待していたから、言ってもらいたい言葉とは真逆の言葉に絶望し「絶交する」と心に誓った。

この日をきっかけに、私は居ないものとして扱われた。親友とクラスメイトは話してるのに私には一切話しかけてこなかった。疎外感と居心地の悪さを感じた私は自宅で勉強するようになった。人目がないとどうしてもだらけてしまうから、図書館で勉強していたのに。人目がある環境の方が、勉強に集中できた。だけど、親友とクラスメイトが仲良くしているのを見ていると”そこに居たのは私なのに!”と心が苦しくなるから自宅でやるしかなかった。
このやり場の無い気持ちを誰かに話したかった。だけど、他のクラスメイトの時間を奪うのは良くないと思った。母に話そうかとも思ったが、ちょうど弟が一人暮らしをはじめた時期で、精神的に不安定そう。彼も働きながら社会人大学院に通い多忙でかつ遠距離。誰にも相談できない。自宅で思うように集中できない。でも国試勉強を続けるしかなかった。結局、国試当日は微熱で身体も精神もボロボロな状態、結果は不合格だった。
自己採点した時から落ちることは予想がついていて不合格と知っても”やっぱりそうだよね”という気持ちだった。短期留学は学生じゃないといけない。だけど、国試は来年また受けられる。そう考えていたから不思議と自分の選択に後悔は無かった。
いよいよ短期留学。参加して英語もまともに話せないし、聞き取れなくて分からないことだらけだった。だけど、「憧れの地にいる!」という高揚感と満足感は今でも鮮明に覚えている。また、異文化交流を通して、日本の居心地の良さは、すごいことで当たり前ではないと気づくことができた。


大学卒業の時期になった。親友とのLINEのやりとりも全て消し、ブロック。友人とのLINEをブロックするのなんて初めてだった。そのくらい、親友とはもう関わりたくないと思っていた。
その後、浪人生活へ突入。私がブロックしても親友は変わらず浪人中の私を応援してくれていた。浪人中に他の友人が応援の小包みをくれた。その中に親友から手紙が入っていたのだ。手紙には「直接何かできないけど、応援してます。試験終わったら連絡ください。会えるの楽しみにしてるね。待ってます。」と書いてあった。
正直、そんなメッセージ見たくもなかった。”こっちがわざわざLINEブロックしてメッセージを受け取らないようにしてるのに。こんな姑息な手段とるなんて本当にあり得ない”と嫌悪を抱いた。ほかの友達の手紙は大事にとってい置いたが、親友の手紙は即座にゴミ箱に投げ捨てた。 2回目の国試が終わり、自己採点で合格圏内であることが分かった。クラスメイトの提案で軽音学部のOBでLIVEに出演しようという話になった。久々にバンドで演奏したい!だけど、親友も一緒のバンド・・・絶交のままでは練習で顔を合わせるのは気まずい。悩んだ末、彼女と絶交でいることよりも、一緒のバンドで演奏できるくらいには仲直りしたいと思った。LINEを送るのはすごく勇気が必要だった。親友とランチに行って面と向かって話すことになった。お互いよそよそしかったけれど、無事、バンドのことについては仲直りすることができて、軽音学部のLIVEに出演し、楽しい時間を過ごすことができた。

当時は親友と元通り仲良くはできなかった。一生絶交、彼女とはもう関わらない!と決めていて未消化の感情を抱えていた。どうして彼女が留学に最後まで反対したのか理解ができないという気持ちが強く、関係を再構築したいとは思わなかった。 ただ、その後、少しずつ彼女の気持ちを想像するようにしたり、私の彼女への気持ちを整理したりした。「LINEブロックされても応援の気持ちを伝えてくれる人だから、私のことを思ってくれてたんだよね」とか「最後まで留学に反対してたのは、私と一緒に国試合格したい!って気持ちが強かったのかも」と当時気づかなかった彼女の気持ちに気づきはじめた。

「やっぱり彼女と仲良くいたい」と思い、結婚式の際には彼女を招待したし、受付もお願いした。今、自分史を書いて振り返りながら「ひさしぶりに一緒にランチ誘おうかな」とも思っている(^^♪私にとってありがたい存在。

歯科医師研修時代

時代想像以上に低い給料

1年間の東京での予備校生活が終わり、歯科医師国家試験に合格できた。念願の歯科医師になれた。、両親を安心させることができて嬉しいと思った。両親は「1年間一人でよく頑張ったね」と祝福してくれた。
歯科医師になると1年間の研修期間が義務付けられている。私は慣れ親しんだ環境であれば、1年のビハインドも楽に埋められると考えて、新潟に戻って母校で研修を受けることにした。

初任給は手取り約15万円だった。当時の新卒の手取りは、大卒の男性で約17万円、女性で約16万円だったから、平均よりも低い。「歯科医師は稼げる職業」と思い込んでいただけに、びっくりだった。新築のアパートを選んだ私は、お給料の半分が家賃に消えてしまう。残ったお金だけでは生活できるか不安だった。父に頼んで毎月2万円仕送りをもらうことにした。
仕送りはありがたかったけど、
「彼との結婚を認めてもらうために、早く仕送りをもらわずに経済的に自立しなきゃ!」
「そのためには1日も早く稼げる歯科医師にならなきゃ!」

と焦りを感じるようになった。

自分がどうしたいかよりも条件で決める進路

研修は1年間だった。業務に慣れはじめた頃には次の就職先・進路を決めなければいけない。
正直「こんな歯科医師になりたい」とか、「こんな歯科医院を作りたい」とか理想像が浮かばない。これまでの人生が「歯科医師になる」ことが目的になっていたから、その先なんて考えたことがなく、0から始める気分だった。
歯科医師としてのキャリア形成だけでなく、大学院や大学病院のレジデント(指導医のもとで臨床経験を積む若手歯科医師)も候補にあった。診療以外に研究や教育にも興味があったからだ。だけど、「これが本当にやりたいことなのかな?もし違ったらどうしよう。」と自分の気持ちに確信が持てなかった。

だから、個人の歯科医院で勤務医として就職することに決めた。自分がどうしたいかよりも、給与や周囲の期待、一般的な成功を優先した。だから、就職してから迷いが深まったんだなと今は思う。

東京勤務医時代

繰り返される過去のパターン

研修を終えた後、技術を着実に身につけることを優先して東京の個人歯科医院に就職することにした。
技術をじっくり学ぶなら大学病院という選択肢もあった。大学病院では、個人経営の歯科に比べ売り上げを求められないので、一人の患者さんをゆっくり診られる。ただ、大学病院は給料が安い。しかも基礎研究や学生教育といった治療以外の仕事があり、治療技術の成熟速度が遅くなりそうに思えた。だから、大学病院ではなく”給料の高い個人歯科医院”を選んだ。
ただ、個人歯科医院にも差がある。給料が高いところは、多くの患者さんを診察することを求められる。忙しい環境で技術が未熟なまま沢山の患者さんを診ることになるのがで怖かった。
だから開業医の中で、給料は低めでも技術を丁寧に教えてくれそうな歯科医院を探した。最終的に決めたのは、技術力の高そうな60代の院長とパートの勤務医が2人いる小さな個人歯科医院だった。面接での雰囲気が実家の歯科医院に似ていて親近感があったし、もし将来実家の歯科医院を継ぐとしたら、似たような環境で経験を積んでおいた方がいいとも思った。

振り返ると、この選択は高校の進路選択と同じだった。
やってみたいことや興味があることがあるのに、「取り返しのつかない選択かもしれない」という怖さと、親・同級生・世間の正解への意識が先に立って、誰からも批判が来なさそうな選択肢からまだマシな選択肢を選ぶ。そのパターンに、当時の私はまだ気づいていなかった。

虫歯治療にゴールはないと薄々気づき始める

技術が上手い歯科医師になりたい。当時の私は「虫歯をできるだけ取り切りたい。被せ物が外れにくいようにキレイに削りたい。精密な型取りをしたい。」そんなことばかり考えていた。患者さんを「歯」として見ていたから、患者さんから「治療してからしみるようになった」「痛みが引かない」「入れ歯が当たって痛い」といったクレームが来ると、「自分の治療が下手だからだ。技術が未熟だからだ。」と思い込み、500mlペットボトルが満たされるくらい模型の歯を何十本も削って練習をした。とにかく技術を磨くことに必死になった。
今思えば、問題は技術ではなかった。患者さんの望みは「痛みを取り除いてほしい」「噛めるようにしてほしい」というシンプルなもの。私も表面的な技術で治療することしか考えていなかった。お互いに同じ表面的なレベルで向き合っていたのだ。だから、「歯が悪くなった背景や生活習慣」「治療後にどんな生活をしたいか」「歯への不安や恐怖心」「日々のセルフケアをどう続けるか」——そういった患者さん自身と向き合う視点が、当時の私にはまったくなかった。本当の意味で自分の健康を守れるのは患者さん自身であって、歯科医師にできることはその人を支えることだという大前提が、すっぽり抜け落ちていた。

加えて、虫歯治療には本当の意味での完治がないという現実がある。虫歯を取り除いても、口の中のどこかには虫歯菌がいる。そもそも虫歯は自然治癒しないし、歯は再生しない。虫歯の「治療」と表現するが、やっていることは「修理」に近い。削った部分に材料を詰めたり被せたりする。口の中は常に湿ってるから材料も劣化する。永久的ではない。再発を防ぐには、患者さんに徹底したセルフケアをしてもらい、定期的なメンテナンスで管理し続けるしかない。終わりなんてない。
技術を磨けば解決すると思っていたのに、そうじゃないかもしれない。患者さん自身と向き合うことの大切さも、虫歯治療にそもそも終わりがないという現実に薄々気づき始めた。当時はまだ言葉にできなかったけれど当時感じていたモヤモヤの正体はコレだったんだと、今ならはっきりわかる。

週6勤務で心身に限界を感じる

院長の口癖は「1年目は食わせてもらう、2年目はトントン、3年目で返す。」「給料の5倍は稼げ。」だった。だから最初は、「若手の自分は給料が少なくて当たり前。技術が未熟なのに雇ってもらってるんだから仕方がない。」と諦めていた。
ただ、この医院では勤務して2年が経っても昇給がなかった。だから私は、社会人3年目になっても父親からの仕送りをもらっていた。「社会人3年目にもなって仕送りをもらうなんてみっともない」、「結婚を認めてもらうために早く自立した姿を見せなければ」と焦りはますます強くなっていった。
どうにか稼がなければと思い、訪問歯科のバイトを見つけた。常勤5日に加えてバイト1日の、週6勤務を始めた。使えるお金が増えて嬉しかったし、仕送りを終了できたことも嬉しかった。

2〜3か月たったある日、私に異変が起きた。バイトの帰り道に「時間を切り売りしてお金にして、私は何をしているんだろう?これって意味ある?」と虚無感に襲われ、急に気持ちが落ち込んだ。4〜5か月が経つ頃には、いつも一緒に施設を回る歯科衛生士さんとの車中で、何気ない会話の最中に突然涙がこぼれるようになっていた。「この生活では身が持たない」と心身ともに限界を感じ、勤務3年目の途中で新潟に戻ることを考え始めた。

同時に、院長への違和感も募っていた。毎月の売り上げを見ては「赤字だ!赤字だ!」とスタッフの前で嘆く院長の姿をみて不安が増した。嘆くだけで何か改善しようとする様子はなく、経営者としての責任感が伝わってこないと思った。
実家を継ぐことを考えると、この院長の姿は他人事ではなかった。経営者はスタッフの生活や人生を背負っている。売り上げが立たなければスタッフを雇うこともできない。自分の理想だけでは歯科医院経営はやっていけないんだ、と痛感した。だからこそ、嘆くだけで何も動かない院長の姿に、「経営者としてそれでいいのか」ともどかしさを感じたのだと思う。
この経験から歯科治療の技術中心の考えから、技術ではなく歯科医院の経営・システムが大事なのでは、と考えるようになった。
「どうすれば稼げる歯科医院を作れるのか」を考えるようになっていた。そして次に就職するなら、経営が学べる場所にしようと考え転職先を探し始めた。

新潟勤務医時代

自信を持って開業するために

東京から新潟に戻った私が次の就職先に求めたのは、経営が学べる環境だった。そのためには大規模な歯科医院で働くことが近道だと考えた。うまく行っている歯科医院には、医院が拡大・成長するためのノウハウが詰まっているはずだと思ったからだ。
最終的に選んだのは、急成長中の歯科医院で、経営コンサルが入っていて、かつ数年前にリニューアルして設備投資をしている。スタッフ20人の規模感で経営を学ぶには最適そうな今勤務している歯科医院だった。
結婚も控えていたため、妊娠・出産の際にスタッフが多い職場の方が自分も楽だという現実的な計算もあった。
今思えば、大規模な歯科医院で学べるのは「大きくなってからの経営」であって、自分がいずれやるであろう「小規模を中規模にする」ノウハウとは別物だった。でも当時はそこまで考えが及ばなかった。

期待に応えられずうつ状態へ

いざ働き始めると、個人で年間目標と月間目標を立てなければいけなかった。必ず数値目標を入れるようにとのことだったが、どう設定すればよいかわからなかった。ちょうど若手の歯科衛生士の1日目標が保険ベースで1万点、つまり10万円だったため、「そのくらい稼がなきゃいけないのかな」と思い、同じ数字を書いた。
誰かに「この目標を達成しろ」と言われたわけではない。自分で設定して、自分で達成を目指す。一見健全なシステムのはずだった。でも気づけば、その目標が自分を苦しめていた。1日平均7000点がやっとでなかなか達成できず、どうにか達成しているように見せるため、保険外の単価の高い被せ物を獲得して月間で帳尻を合わせることに必死になっていった。
日に日に、診療時間外の負担も重なっていった。勤務時間は基本的に患者さんを診る時間にあてられる。そのため、症例発表のスライド作成、オンラインセミナーや書籍で学んだことをスタッフに共有するためのスライド作成、読書感想文の作成、上司から依頼された製作物——これらはすべて休日や自宅で行う必要があった、勤務時間は診療でいっぱいだからだ。気づけば残業に相当する時間は最大で月間60時間を超えることもあった。

また、職場のビジョン・医院理念・行動指針に心から共感していた。みんなが向かうべき方向を示してくれる歯科医院があることが新鮮で、素直に魅力を感じていた。しかし働くうちに、その行動指針が知らず知らずのうちに自分を縛っていった。
「常に見られている意識を持ち礼儀正しく行動する」という指針があったのだが、いつも人目を気にして気を張り続けることになり、自宅に帰っても心が休まらなかった。「3つのために働く(医院・患者・自分)」指針は、いつしか「自分が抜け落ちて、医院患者のために」という思い込みに変わっていた。「プラスの声かけをする」指針は、愚痴や弱音を言ってはいけないというプレッシャーになり、誰にも本音を話せなくなっていった。
ある日ホワイトボードに上司が赤字で歯科衛生士さんのチェックと患者さんへの説明に『1日1件以上入るように』と書いていた。自分の診療をこなしながら、期待以上に応えようとし、その結果、自分の治療時間が押して、予約時間通りに患者さんを案内できなくなった。自分の思い通りにならない、上司の期待に応えられない——その折り合いがつかないまま、少しずつ心が限界に近づいていった。
やがて、私は仕事以外は寝て過ごすようになった。休日は風呂に入る気力もなかった。外出する日はほとんどなくなった。毎晩「何のために生きているの?仕事するために生きてるの?」と虚しさから涙がこぼれる日々が続いた。

歯科医師を辞めたい

職場は、客観的に見れば恵まれた環境だった。スタッフは視野が広く積極的で、気配りや患者対応、接遇も高いレベルにあった。定期的にセミナーを受講し、技術や知識のアップデートを欠かさない意識の高い人たちばかり。施設も数年前にリニューアルしたばかりで、最新設備が揃っていた。
それなのに、「職場を辞めたい」「歯科医師を辞めたい」という気持ちが頭から離れなかった。こんな素敵な職場にいて辞めたいという気持ちを抱く自分が許せなかった。「こんなことを思っているなんて、周りに知られてはいけない。」そう思って誰にも相談できないまま、一人で抱え込んでいた。
そんな中、少しでもやる気を出そうと経営コンサルのセミナーに参加した。職場の院長と同期の勤務歯科医師と一緒に参加した。そのセミナーの帰り道、院長が尊敬する人物として、スターバックス元CEOの岩田松雄さんを紹介してくれた。岩田さんの著書「ミッション」を勧められ、読んでみたら自分には「理想の人生」も「ビジョン」もないことに初めて気がついた。

理想の人生が思い描けない

自分に「ビジョン」「理想の人生」がないことには気づけた。でも、「私にとっての理想の人生とは何か」がわからなかった。
少しでも自分を理解しようと、豊田祐輔さんの「価値ある自分に出会う20の質問」や八木仁平さんの「世界一やさしい『やりたいこと』の見つけ方」を読んだ。YouTubeで自己理解を深めるワークにも必死に取り組んだ。でも、これまでの人生で積み重ねてきた思考の癖が邪魔をして、自分にとってのビジョンをなかなか見つけることができなかった。

振り返ってみれば、ずっと「誰かの正解」を生きてきた。母の期待、世間の正解、職場の行動指針——気づかないうちに自分の外側にある答えを追いかけ続けてきたから、「自分はどうしたいか」という問いに向き合う習慣そのものがなかったのかもしれない。

そんな中、ネットで「ビジョン 人生」と検索していたとき、たまたま目に入ったのがサイナスリズムコーチングの石原瑶子さんのブログ記事に出会った。

ライフコーチング・石原瑶子さんと出会う

ライフコーチとの出会い

「ビジョン 人生」と検索してたまたま目に入ったのが、サイナスリズムコーチングの石原瑶子さんのブログ記事だった。読み進めるうちに、瑶子さんのインスタグラムも見るようになった。あるインフルエンサー主催の読書会でパリのリッツに滞在されていたり、ラグジュアリーなジュエリーを身につけていたり——自分の知らないきらびやかな世界がそこにあった。「こんな世界があるんだ」と純粋に憧れを感じた。そして、ライフコーチという仕事があることも、そこで初めて知った。
すぐには申し込めなかった。コーチングにお金を払うことへの躊躇があったし、本当に変われるのかという疑いもあった。何より、瑶子さんのブログや雰囲気に惹かれて申し込んだとしても、担当が別の人になったら変われるのだろうかという不安もあった。しばらくの間、申し込むかどうか迷い続けた。
休日は、家から出ることがほとんどなかった。体力を回復させるために、アニメやYouTubeを見て過ごす日々。外に出ると体力が削られる感覚があって、仕事のために休日を使っているような感覚だった。でも一方で、何の生産性もないことをしている自分への罪悪感もあった。そんなとき、コーチングセッションはオンラインで受けられると知った。「今の私でも受けられるかもしれない」と思えた。
自力でもがいてみたけど上手くいかなかった。このままではいけない、変わりたい、変わるために何かしなければ——そう思い続けた末に、「いよいよ人の手を借りないと変えられないかもしれない」と思って、体験セッションに申し込んだ。

体験セッションでの気づき

体験セッションのテーマは「今やりたいこと」だった。
やりたいと思っていることはあった。でも、やれていなかった。その理由を考えると、「やらなきゃいけないことを先に済ませないといけない」と思っていたからだと気づいた。
そのとき、コーチにこう聞かれた。
「やりたいことから先にやるのはだめなんですか?」

ハッとした。だめじゃない。やりたいことを先にやってもいい。頭ではわかった。でも同時に、もう一つのことにも気づいた。
「やらなきゃいけないことを先にやらないとだめ」というルールを、誰かに課されたわけでもないのに、自分で勝手に決めていたのだということに。
ずっとそのルールの中で生きてきた。自分で作ったルールで、自分を縛り続けてきた。そんな扱いをされてきた自分がかわいそうに思えて、涙がこぼれた。

コーチングを受けてからの変化

変化はじわじわと起きた。ある日突然変わったというより、気づいたら少しずつ違う自分になっていた。
一番大きな変化は、自分の気持ちや感情に気づけるようになったことだ。これまでは他人の目や期待が先に立って、自分がどう感じているかをほとんど意識していなかった。コーチングを受ける中で、「今、自分はどう感じているか」を問い続けることで、少しずつ自分の内側の声が聞こえるようになっていった。
他人の目への意識も変わった。気にしなくなったというより、「あ、今また他人の目を気にしているな」と自覚できるようになった。そしてその自分を責めなくなった。他人の目より自分の気持ちを優先できる場面が、少しずつ増えていった。

行動も変わった。休日に外に出られるようになった。自分の気持ちを誰かに話せるようになった。「やりたいことを先にやってもいい」という体験セッションでの気づきが、少しずつ行動に滲み出てきた。


そして、ライフコーチという仕事への興味が膨らんでいった。瑶子さんのことはコーチングを知った最初の頃からずっと気になっていた。コーチングセッションを重ねる中で、その瑶子さんがコーチング講座を開講すると知った。『コーチングを学びたい』という気持ちはあった。でも、『歯科医師を辞める』という選択肢を今すぐ選べない自分もいた。
やりたいことはあるのに、できない理由を探しに行っている。自分の気持ちと反対の行動をしている——セッションの中でそんな気づきが生まれた。自分の本当にやりたい気持ちと行動を一致させていこう。その一歩として、コーチング講座への参加を決めた。講座を通じて、歯科医師以外の道を真剣に考え始めるようになっていった。

自己否定が消えたわけではない。でも、自己否定しても、そんな自分をそのまま受け入れられるようになった。完璧じゃなくていい、と少しずつ思えるようになっていった。

現在

誰かの期待ではなく「自分の正解」を選び生きるということ

コーチング講座を修了、ライフコーチとしての活動準備を進めたいと思った。ただ、フルタイムで歯科医師として働きながら、コーチとしての準備を同時に進めることは理想に到達するのがあまりにも遠い。ちょうどその頃、妊活を始めて1年が経とうとしていた。自然妊娠を待ち続けてきたが、なかなか結果が出ない。毎月1回、東京に日帰りでセミナーに参加したある日、生理が重なり、生理痛と精神的な不安定さ、妊娠しないことへの焦りが重なり、セミナーの帰路に悲しくなった。
「どうして私だけ妊娠しないの?」
周りの友人も、職場の同僚も、簡単に妊娠していく。こんなに望んでいるのに。夫にも協力してもらって、基礎体温も毎日つけて、タイミングだって合っているはずなのに。なぜ。ふと思った。「このまま妊娠しないで、仕事に打ち込む毎日が続くのかな。」セミナーだって、最初は新しいことが学べて楽しかった。でも今は「休日に何をしているんだろう」と思う自分がいる。日帰りで、毎月東京に来て——「これって、誰のためなんだろう。参加したくない。休みたい。とにかく、自分のために休みたい。」こんなに慢性的に疲弊している状態で、妊娠できる気がしない。
これをきっかけに、不妊治療を本格的に始めることを考え始めた。

「辞めるか続けるか」の二択を超えて見つけた、理想の働き方

不妊治療と、フルタイムの歯科医師としての仕事を両立させる。さらには、コーチの活動もしたい。不妊治療のために通院するとしても、仕事のスケジュールを簡単には変えられない。どちらも優先しようとすると、どっちつかずで中途半端になってしまうのではないかという不安がよぎった。
「働き方を変えたい」という気持ちは、以前からずっとある。でも、「辞めるか続けるか」という二択の中で迷っていてコーチングを活用しても踏み出せずにいた。何度もコーチングのテーマとしてあげてコーチと話す中で、少しずつ自分の本音が見えてきた。「仕事は大切にしたい。でも自分の時間も作りたい。だから、残業なんてしないで、早く帰りたい。」と思った。
「自分の感覚を大切にしたい」「自分を大切な人のひとりとして扱いたい」それが私の理想の働き方の原点だということにきづいた。
そして、「上司に相談してみる」というアクションプランをコーチに宣言した。

「辞めるか続けるか」の二択を超えて見つけた、理想の働き方

上司に相談すると決めた数日後、経営陣・勤務医での食事会をしようと上司から誘いがあった。上司に伝えたいことを何度も考えて文章に書いた。妊活がうまくいっていないこと。不妊治療を始めたいと考えていること。常勤のままでは通院との両立が難しいこと。残業をなくす、もしくはパートタイムなどを検討して今やりたい妊活に集中する時間を作りたいと思っていること。上司に伝えるためのシミュレーションを何度も何度も繰り返した。
でも、いざ食事会が始まると、なかなか言い出せず頭の中でぐるぐると。「不妊治療のために働き方を変えたいだなんて、わがままだと思われるかもしれない。」「他のドクターに迷惑をかけてしまうかもしれない。」「働くことに消極的だと見なされて、評価が下がるかもしれない。」「ここまで真面目に常勤として働いて築き上げてきた信頼や期待を、裏切ることになるかもしれない。」「相談したことで、職場に居づらくなるかもしれない」——そんな恐怖が次々と頭をよぎって、言葉が出てこなかった。会が始まって10分、20分、30分と時間が過ぎていった。気づけば終了10分前になっていた。「これを逃したら、次の機会はいつ来るかわからない。」そう思った瞬間、震える気持ちのまま口を開いた。

話し終えた後、上司から返ってきた言葉は温かかった。「子供が欲しいという気持ち、すごく伝わった。力になれるように頑張りますね。」翌日、LINEでお礼を送ると、「働き方を工夫しながら、うまくいく方法を一緒に探しましょう。」と返信が来た。わがままだと思われるかもしれない、居づらくなるかもしれない——そんな恐怖を抱えながら、それでも口にした言葉を、こんなふうに受け止めてもらえるとは思っていなかった。じんわりと、目が熱くなった。
その後、上司が働き方についてさらに調べ、考えてくれた。不妊治療を理由とした時短勤務は他の歯科医院でも前例がないこと、時短正社員の場合は産休・育休後にフルタイムに戻ることが前提になること——そういった現実も見えてきた。先が見えない中で「フルタイムに戻ります」と約束することはできなかった。だから、最終的に選んだのは非常勤という働き方だった。一般的な歯科医院での非常勤という形が、今の自分にとって一番無理のない選択だと思えた。
第三の選択肢が見えたのは、コーチングを通じて自分の本音や理想の働き方を少しずつ言語化し、気づき、そして行動し続けてきた積み重ねがあったからだと思う。そして今、私は非常勤という働き方をしながら、妊活をしている。そしてコーチとしての活動もさせていただいている。

自分の未来を制限してきた「他人の期待」を手放したいあなたへ

担当したクライアントからは
「評価が怖くて言い出せなかった本音を、初めて上司に伝えられました。」
「人の意見に流されていた私が、自分の望む選択を自分でできるようになりました。」
などのお声をいただいている。
そして私は、コーチングそして、この自分史を書きながら、改めて気づいたことがある。
私がずっと苦しんでいたのは、能力や環境の問題ではないということ。
ただ、自分らしい生き方より先に、他人の期待を優先し続けてきた。
それが自分自身の未来を制限してきたということだ。

この自分史を読んで、昔の私と似た経験をした方や共感できると思った方へ。
「上司や親の期待に応えなきゃと思いながら、自分がどうしたいかを後回しにし続けてきた。」
「正しい選択をしてきたはずなのに、なぜか自分の人生を生きている感じがしない。」
「気づいたら、誰かの期待に応えることが、自分の生き方になっていた。」
もし今あなたがそう思うなら今までのあなたはよく頑張ってきた。
ただ、自分らしい生き方が見えにくくなってしまっているのは、他人の期待を軸にしてきたというだけ。
ここからは、誰かの期待ではなく自分の正解を選んでいくために 自分らしい生き方ってなんなんだろう?
あなたが本当に望む生き方・未来は何か、一緒に言葉にしませんか?
その一歩は、小さくていい。